恩師の死と旧友達との再会。 | |||
| 3月17日。お世話になった高校時代のクラブの恩師がこの世を去った。 そして本日、葬儀に参列しお別れをした。 当時、あんなにも憎らしく、そして厳しく、反骨精神を剥き出しにして魂をぶつけた恩師の遺影に涙がこぼれそうになった。 思い起こせば我々の高校生活は、大変につらく厳しい「部活動一筋の青春」を送った。 私は高校時代の3年間、器械体操というスポーツ競技に汗を流し、365日全く休むことなく練習をし、 無遅刻・無欠席などというのは「当たり前」の激動の3年間を過ごしてきた。 私が所属していたクラブというのは伝統を重んじるそれこそ「縦社会」のクラブで、毎日朝は7:15から授業が始まる前の8:30頃まで朝練習をし、授業が終わった後は夕方の4:00からそれこそ深夜まで練習する絵に描いたような「スポ根クラブ」だった。 そもそも我々の高校というのは当時スポーツ進学校で有名な学校で、その中でも自分たちのクラブというのは他の運動部などとは比較にならないほど「特殊で異常に厳しいクラブ」という、かなり異質な存在であった。 私は、体操をやる人間の中では背が高く体格も良かったので不器用な選手でした。 技術や表現が上手な人間は先輩にも後輩にもたくさんいて、それほど優秀な選手ではなかった。 それでも、あまりの練習の厳しさに逃げ出したくなったり、ひどく憂鬱になるのは先輩後輩共々日常茶飯事で、その日その日を生きるのに皆真剣だったし、必死だったのを今でも鮮明に覚えている。 当時は授業が終わる時間が近づいてくると徐々に「戦場」へと向かっていくような気分になったし、幼いなりに、ここに来た「宿命」みたいなものを皆背負って生きていたと思う。 クラブに向かう体育館への廊下の途中、楽しそうに帰宅しようする連中を尻目に見ながら、僕らはその日その日の練習に全力で臨んでいた。 なぜなら、練習で手を抜くもんなら容赦なく監督の「鉄拳制裁」が待っていたからだ。 今それを表現するのはとても難しいのだけれど、練習で使っているマットなどは歴代の先輩たちの鼻血や流血が染み付いて血痕になってんだから・・・。それが伝統というか(笑) それでも耐えていたんだよね、みんなあの時代は・・・本当にハングリーだった。 今の時代、あんなやり方で生徒を指導していたら、きっと間違いなく社会問題になるのだろう。 だが、あの時代にはまだそんな「スパルタ教育」っていうのかな・・・・そんなものが確かに生きていた。 たぶんあれが「昭和の時代」最期のスピリットみたいなものだったんだろうなぁ。 青春期、真っ只中の高校生活。 なのに俺らは部活ばっかで女の子と手をつないで学校帰ったなんて記憶一切ない。 練習がヒートアップすることなんて日常茶飯事で、電車通の人達が自宅に帰る終電に間に合わなくなるギリギリ寸前まで平気で練習していた時代・・・・。 静まり返る体育館の外から聞こえてくる蛙や虫の声が、遠い記憶のサウンドとして蘇ってくる・・・。 なつかしい・・・・。 僕らにとっては、あれが本当の意味での「昭和の記憶」かもしれない。 先生にとっても生徒にとっても・・・・。 話しは尽きない・・・・。 そんな高校時代の監督が病に倒れた・・・ そんな知らせを一ヶ月前くらいに後輩から電話で聞いた。 すい臓がんで余命は良くて一ヶ月と宣告されていた。 僕の20代というのはそれこそ無我夢中で全力で走っていた。 過去を振り返ることなく自分の思うがままに生きてきた。 ゆっくり過去を振り返ろうともしなかった。 ホントに何十年ぶりの再会だった。 久々の再会が病床でしか成し得なかった自分を悔いた。 昔、我々を叱咤し激を飛ばした「鬼監督」の表情にあの頃の覇気はなかった。 だが、大量に吐血し相当体力も低下していたにもかかわらず、たまたま運よく健康状態が良かったときに僕らは面会することができた。 痛々しいその姿にはさすがに絶句した。 監督は「何だかみんなに見られて恥ずかしいな・・・」と照れながら笑って見せた。 言葉にする事も苦しそうだ。 面会の時間も限られていた。 私はどんな言葉を発して良いものだろうか。大変迷った。 「先生にもらった色紙、今でも大切に飾っていますよ。」 私は言葉を集約した。 卒業するときにもらった、立派で額縁に入ったその色紙を、私は本当に今でも大切に飾っている。 「俺は先生に学んで良かったと思っている・・・・」 そうも伝えた。 私は点滴やら何やらいろんな管の通った監督の痛々しい手に握手を求めた。 「あぁ・・・元気が出た・・・・・・ありがとう・・・・・」 うっすらと涙を浮かべる監督にもらい泣きしそうになった。 これが私自身が交わした最期の言葉だった。 先生の葬儀には、とてつもない多くの人間が参列していた。 20年ぶりに久々に逢った先輩や後輩もいた。 今日まで皆、それぞれの人生をあゆみ、その表情にはそれぞれの年輪を重ねていた。 逢えば逢ったですぐに昔にフラッシュバックした。 一気に20年前にタイムスリップした。 「あぁ、俺にはこんなすばらしい仲間達がいたんだな・・・・」 そう思った。 「また改めて逢おう」 そんな旧友達と一緒に、久々に酒でも飲みながら、昔を、そしてこれからを語りたくなった。 努力する根性こそ素質だ 監督 宇野 卒業するときにもらった、色紙にはそう書かれている。 いろんな意味が込められた、いい言葉だ。 高校時代のあのフラストレーションは、のちの僕の人生のとてつもないエネルギーになって一気にスパークしていったし、いろいろな情熱への根源となっていった。 アームレスリングでチャンピオンにもなれたのも、その後俳優として様々な現場を経験できたのも、山形に戻って映像事業の旗揚げに躍起になってそこそこやれてきたのも、すべてはそこに自分の精神の原点があったからだと思っている。 そして、思い起こせば、そのたびごとに宇野先生は電話をくれた。 「チャンピオンになったのか、おめでとう。」 「お前が出ているドラマ」を観たぞ。」 そんな些細な会話に、今となって「恩義」を感じる。 あの踏んづけられてデコボコになって生きた日々。 あれがあって「今」なのだと、今は思える。 その当時は正直そんな事はこれっぽっちも思わなかった。 やっと「シャバ」に出れた・・・・そんな開放感を謳歌していたのは言うまでもない。 でも今は心底思う。「あれが自分の原点。」 努力する根性こそ素質だ 遠い記憶の彼方に存在するあのスピリットみたいなものは、これからどんなに時代が変化して行こうとも大事にして生きていたいと思っている。 ありがとうございました。そしてお世話になりました。 心より御冥福をお祈り申し上げます。
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Author:漆山弘志
1971年山形市生まれ。アームレスリング世界チャンピオン南波さんのジムで10年間アームレスラーとして活躍後、「あぶない刑事」「はみだし刑事」などのアクションを演出する高瀬将嗣氏主宰のガイズエンターティメントに所属し俳優としての活動を展開、同郷で日本映画界の巨匠・村川透監督のご好意で村川作品を中心に活動する。
現在地元山形へ帰郷し、独自の映像制作事業を展開しながら充電中。
映像制作 D.I.P FACTORY
990-2367
山形市すげさわの丘15-4
電話&FAX 023-645-2570
(自宅兼用)
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※このDVDは映画祭素材として制作した非売品の為、販売は一切出来ません。

村川透監督の第一回「村川透映画祭」を編集したDVD。村川監督、ゲストの柴田恭兵さん、そしてシネマパーソナリティー荒井幸博氏が繰り広げたシネマトークショーを収録。
「はみだし刑事」の現場で村川監督と柴田恭兵さんには何度もお世話になっているので、私にとっても感慨深く忘れられない最高のトークショーになりました。

村川透監督の映画祭上映用に制作したDVD「The Legend of 映画監督 村川透」。
村川監督の幼少時代から助監督を経て、監督として活躍している今日までを貴重な写真と映像で綴ったものです。
私個人としても、これを作らせてもらえたのは大変光栄な事でした。村川監督、ありがとうございました。